彼女はぼんやりと携帯画面を眺めていた。
 心を占めるのは不安の二文字。
 ここ数日、恋人と連絡が取れない事がその原因だ。今一度、彼の電話番号を呼び出すと発信ボタンを押す。

「――お留守番サービスに接続いたします」

 何度かのコール音の後に続く、聞き飽きた女性の声。
 溜め息を吐くと電話を切る。後には空しさだけが残った。

「なんで…」

 呟きかけて、飲み込む。
 なんで電話を掛けてきてくれないの。
 なんで会いたいっていうメールの返事が『忙しいからまた今度』なの。
 なんでこんなに想っているのにあなたに伝わらないの。
 なんで……。
 海白彩は携帯をぎゅっと握り締めた。

「やっぱり、そうなのかな…?」

 不安から零(こぼ)れる言葉に気が付かない。
 彼女の瞳は卒業式の日を見ていた。

 

 先程までクラスメイト達との別れを惜しんでいたが、今はいつものメンバーとの待ち合わせの為に校門へ向かっていた。
 この学校ともお別れ。
 そう思って校舎を振り返ると、木の陰に一組の男女が見えた。
 別れを惜しんでいるのか女生徒は泣いているようだった。側に立つ男子生徒の横顔が目に映ると彩の驚きが言葉になって表れる。

「実春……」

 そこにいたのは自分の恋人である野田実春だったのだ。
 しかし彼女は驚きこそすれ、不快に思うことはなかった。彼ほどの男だ、他の女性から好かれていても当然だろう。
 後でからかっちゃおう。
 くすりと笑いをこぼすと校門へ足を向けた。ただ結局その後の卒業祝いと称した集会では皆と盛り上がってしまい、彼をからかうことをすっかり忘れてしまっていた。
 その時は。
 それから少しづつ歯車が噛み合わなくなってきた。
 電話をしても今までみたいに長話に付き合ってくれなくなった。
 メールの返事も必要最低限の事しか書いていない。
 確かに実春は元々『好き』とか『愛してる』とか言わないし書いてこないから、その点では今まで通りなのかも知れない。
 しかし言葉の節々に彩を想う心が見え隠れしていた。
 今は、それが見えない。
 何度か理由を問いただしたが結局ははぐらかされてしまう。
 4月から二人は別々の路に進むことになっている。だから気兼ね無く会えるのは今だけなのに、と彩は何度も言いかけた。
 けれど、その言葉は喉から上がってこない。
 卒業式の日の光景が脳裏を過(よぎ)り、泣いていた女生徒の姿が口を重くするのだ。
 沈黙するしかない彼女に実春は「時期が来たら話すから」と必ず結んだ。
 会って、話をすることが出来たらどんなに良いだろう。
 電話やメールでは相手のカオが判らない。もし、嘘を吐(つ)かれていたとしても表情や仕種から読み取ることが出来ないのだ。
 しかも今は彼からの連絡自体が無い。
 心に不安だけが広がっていく。
 私よりも彼女を選んだのかなぁ。……私はもう必要とされていないの?
 自分にとって野田実春という存在の大きさを、今更ながらに思い知らされている。

「でも」

 彩は自分でも知らないうちに自らの決意を言葉にしていた。

「不安に思うばかりじゃ前に進めないもの。ちゃんと確かめなきゃ」

 彼が本当に自分ではない女性に心を寄せているのか。それとも別な理由で連絡を拒否しているのか。
 何を言われてもそれが事実なら受け入れたいと思っている。
 だが現実にその局面になった時に思い描いている自身を保てるのだろうか……。

 

 3月もそろそろ半分が過ぎようとしてる。けれどもまだ連絡はない。
 それでも自らの思いを伝えるため、海白彩は野田実春の家の前に来ていた。彼に事前の連絡をせずに。
 携帯電話を取り出すと発信履歴の一番上に鎮座している番号に掛ける。
 聞き飽きているコール音が続く。今まではうんざりしながら聞いていたが、今日はその間に留守録に入れる為に考えてきた文面を心の中で復唱していた。
 しかしいつもより早く呼び出し音が切れ

「もしもし。彩か?」

 実春の声が彼女の耳を打った。

「ちょうど良かった。俺も連絡しようと思っていたところなんだ。今どこにいる?」

 何日ぶりかに聞く恋人の声は、何も変わっていなかった。
 彩の頭に色々な思いや考えが浮かび、けれどそのどれをも口にすることは出来なかった。結局

「実春くんの家の前」

 という事だけを伝える。
 当然その答えに驚いた彼だったが、30分ほどで帰るから家の中で待っていてほしいと返してきた。
 電話を切ってどうしようか迷っていると、野田家の玄関が開いて彼の母親が姿を現した。

「あら本当だわ。彩ちゃん、上がっていって」

 実春が母親に連絡したのだろう。
 何度か遊びに来ている海白彩という息子の可愛い彼女が玄関先にいるとなれば、招き入れるのを断ることもない。母親はにこやかに彼女を呼んだ。

「実春はねぇ、もう暫くしないと帰って来られないみたいだからあの子の部屋で待っていてくれる?」

 と彼の部屋へ通された。
 扉を開けると何ヶ月前かに来た時と同じ風景がそこにあった。
 綺麗に整頓されている机は彼の性格を表わしているようだ。不必要なモノは何も置いていない。それが自分達の写真であっても。
 少しだけ寂しさを覚えたが余計なことを考えるのは止めようとベッドの脇に置いてあるクッションを手にした。ところで彼の母親に声を掛けられた。

「ごめんなさい。私、これから集会に行かなきゃならないの」
「あ…。そうなんですか。判りました、今出ます」

 鞄を手にすると、慌てて止められる。

「違うのよ。彩ちゃんに出ていってほしいんじゃなくて、何のお構いもできないのに留守番させちゃう事になって悪いわねって」
「いえ。私のほうこそ。勝手に押しかけてきて、それなのに家に上げていただいて有り難く思っています。留守番なら大丈夫です。野田くんが帰ってくるまで私、ちゃんといますから」

 じゃあよろしくお願いね、と母親は集会へと出掛けていった。
 玄関の閉まった音が消えると途端に家の中が静かに感じた。
 実春が帰宅するまで、もうしばらく時間がある。
 彼の部屋の窓を開けると風が入ってきた。春とは名前ばかりだと思わせる冷たい北からの風。それはまるで自身の心の内を表わしているようだと少しだけ笑った。けれどそんな笑みは長く続くはずもなく、すぐに不安の表情に変わってしまう。
 確かめるまでは帰らないと誓って来たはずなのに、もし留守番を頼まれてなければ今すぐにでもこの場を去りたい気分だ。
 窓を閉めると溜め息を吐く。「溜め息は吐いた分だけ幸せが逃げる」って、誰か言っていたような気がする…。そんなことを思い出しても、彩はそれを止めようという気がなかった。
 ガチャッ。
 扉が開く音が聞こえた。それに続く「彩、いるんだろ」の声。
 野田実春が帰ってきたのだ。
 この部屋へと真っ直ぐ近づいてくる足音。
 「お帰りなさい、実春くん」。そう笑顔で迎えようと思っていた。それなのに…。
 彩の微笑は恋人が部屋へと入ってくるまでしか持たなかった。実春の姿を確認した彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。
 驚いた実春が「彩?」と言葉を発すると、今まで彼女を支えていたモノが崩れていった。

「なんで――なんで実春はそんなに冷静なの?私はあなたに会えなくて、連絡が取れなくて不安だったのに。電話をしてもメールをしても、全然返してくれなくて。私一人が悩んで、落ち込んで」

 箍(たが)が外れたように渦巻いていた感情をさらけ出す。

「私達は別々の路を進むから、気兼ね無く時間を気にせず会えるのは今だけだって。今の時期しかないんだって思っていたのに。会いたいって言っても忙しいからと断られて。いつ会えるのって聞いてもその内としか答えてもらえなくて…。だからもしかして実春には新しい彼女が出来たんじゃないかって―――」

 言った瞬間、彩の中でそれが事実に思えた。
 言葉を切って実春の顔を見る。表情に変化が表れていない事を無言の肯定だと認識した彼女は鞄を手に取ると

「ごめんなさい、変なこと言って。…さようなら」

 男性の脇を擦り抜けた。
 しかしその後の歩みは彩の腕が実春に掴まれたため進むことはなかった。

「ごめん」
「謝らないでよ。私が惨めになるだけじゃない。別に実春を…野田くんを責めているわけじゃないの。私が自惚れていたっていうだけだから」

 顔も見ずにそう言うと、腕が強く引かれる。

「ごめん。俺、彩の気持ちが全然見えていなかった。忙しさを理由にして返事を送らなかった事がこんなにもお前を傷つけていたなんて知らなかった。すまない」

 抱き取られ耳元で謝罪をされた。彼女は静かに首を振ると

「ううん、いいの。もう気にしないで。私は大丈夫だから」

 彼を見上げると小さく笑った。
 困ったような笑顔。それは実春が昔に見たものと同じ笑い方だった。
 今にも泣き出しそうなくせに、それを見せないために壁を作る。まさかまた自分か彩のこの表情を見る日が来るなんて思いもしなかった。しかも自分が原因で。
 実春は奥歯を噛み締めると、彩の両肩に手を置き正面から彼女を捕らえる。

「彩。よく聞いてほしい。俺は彩以外の女性とは付き合っていないし、付き合う気もない。何でお前がそんな勘違いをしたのか判らないけれど、俺にはお前しか見えていないから」

 だけど。視線を逸らし俯くと言葉を続ける。

「もし、それでも彩が俺を許せないなら、俺は、それを…受け入れるよ」

 囁くほどの小さな声。肩を掴む手が僅かに震えていた。
 受け入れて欲しくない提案をせざるを得ない状況を作った自分に課す、言葉の檻(おり)。
 逃げ出すことが出来ないように自らを閉じ込める。
 別れたくなんか無いと我儘を言えないように、自業自得という言葉を身を持って知るように。
 別離を示される恐怖に震える実春の手は、彩の心に光をもたらした。
 失うことを怖れるのは、本当に自分を必要としているからだろう。

「実春くん…」

 丁寧に名前を呼ぶと、彼の手を自らの肩から下ろしぎゅっと握った。

「不安、だったの。本当に不安だったの。実春くんが私のことを、もうどうでもいいって思っているんじゃないかって。卒業式の時に告白された女の子に心が移ったんじゃないかって思って。でも、そんなこと聞けなくて」

 涙が視界を歪める。

「不安に思っているばかりじゃ駄目だって、ちゃんと確かめなきゃって、だから今日ここに来たのに、実春くんの表情が変わらないのを見たら真実を告げられるのが恐くなって聞きたくないから逃げ帰ろうと……」

 自分でも何を言っているのか支離滅裂。
 それを止めたのは彼女の口先に置かれた恋人の指だった。それはそのまま顔の側面に移動して、今度は優しい接吻(くちづけ)が降りてくる。
 混乱がゆっくりと沈静化されていく。
 離れると実春は彩の瞳を覗き込み冷静さを取り戻していることを確認する。それからポケットの中から小さなケースを取り出した。

「喜んでもらえる事があったら、それまで会えなかったことも許してくれるはずなんて、俺の勝手な思い込みだったんだな。彩にしてみればこんな物より毎日一緒に過ごす時間のほうが大切だったのかも知れない」

 物はいつでも買える。けれども一緒に過ごせるのは今しかない。
 心の呟きを言葉にすることは止めて、違うことを口にした。

「今日はホワイトデーだろ。だからこれを彩に贈ろうと思って」

 ケースを受け取り蓋を開いた彩が目にしたのは指輪だった。

「宝石が入ったアクセサリーって高いんだな。小遣いだけじゃ足りなくて日払いのバイトとか増やして何とか工面したんだけど。疲れも溜まって彩のこと気遣うどころか、何でお前のために苦労しているのに我儘ばっかり言うんだよって八つ当たりしそうになって。俺が勝手にやっている事で、彩が頼んだ訳でもないのにな」

 離れていても、いつも俺を思い出してほしいから指輪を選んだんだよ。手なら嫌でも目に入るだろ。
 口元を歪めるように笑う。しかしその表情は浮かんですぐに消えてしまった。
 彼女が視線を宝石から恋人へ移す。今まで気が付かなかったが実春の顔には疲労の色が見て取れた。
 お互いが相手のことを想ってしてきた行動によってズレてしまった歯車が、今しっかりとハマる。

「――私達が好きな時間に好きなだけ会えるのは今しかないの。だから『今』を大切にしたかった。モノよりも一緒にいる時間が欲しかったの」

 ケースが実春の前に差し出される。諦めの表情で受け取る彼の耳に彩の言葉が続く。

「でもそれは実春くんが私に贈ってくれる高校時代最後のプレゼント。指輪を見て実春くんを思い出してほしいなら、実春くん自身が私にはめてくれなきゃ」

 すっと手を差し出す。

「付けてくれるんでしょ?」

 にっこりと微笑む。その笑顔に実春は彩の手を取らずに身体を抱き締めた。
 想いを拒絶されたわけではなかった。そのことが嬉しかった。
 己が彼女を想う以上に自分を優しく包んでくれる。
 それが自分にとっての海白彩という存在なのだ。
 ずっと、ずっと大切にしたい。
 静かに身体を離すと恋人の手を取りその指にリングを通す。
 「ありがとう」と嬉しそうに笑む彼女と、思っていた以上に似合うその様に微笑むと自分の気持ちを表わすように、もう一度強く抱き寄せた。

 

「お邪魔しました。じゃあ実春くん、またね」

 海白彩はそう言って彼に手を振ると野田家の玄関を閉める。
 扉を開けた時には気が付かなかったが、外は春雨が降っていた。
 傘を持っていない彼女は少し困った表情をしたが、この程度の降りなら大して濡れずに帰宅できるだろう。
 傘を借りるほどでもないと判断して雨の中を歩き始める。と、後から声が掛けられた。

「濡れて風邪でもひいたらどうするんだ」

 そこには傘を差して立っている野田実春がいた。

「ほら、送っていくから入れよ」

 自らの隣を指し示す。
 彩にはそれを断る理由がないため言葉に甘えて彼の隣に立つと、そっと腕を組んだ。
 降るごとに暖かくなる春の雨。
 自分達の未来もそうでありたいと願いながら彩は手で雨を受ける。
 その指には実春からの愛がキラリと輝いていた。

END

実を結んだ春の彩り|桜左近

 




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インディーズ小説家。橘右近の相方=心の友です。ファン第一号